司会 >
「古九谷 その謎を追う」今回は石川県埋蔵文化財センター藤田邦雄さんにお話を伺いいたします。中矢さん、藤田さんは、今回この山中温泉の奥にあります九谷ダムの建設に伴いまして発掘されました、九谷A遺跡につきましてお話しをお聞きして・・。
中矢進一氏 >
そうですね。埋蔵文化財センターが中心になって、この九谷A遺跡というものを永らく発掘調査しておりました。そこから出てきました遺物、そして遺構こういったことにつきまして、どういう意義があるのか、ということを今日はお話していただけると思います。
司会 >
それでは、石川県埋蔵文化財センター藤田邦雄さんのお話しをVTRでお送りいたします。
対談
中矢進一氏 >
まずこの九谷A遺跡というのは、どういった遺跡でしょうか。
藤田邦雄氏 >
九谷A遺跡といいますのは、九谷ダム建設工事に伴いまして、平成6年度から平成15年度の10ケ年にかけて埋蔵文化財センターの方で調査した遺跡ということになります。場所は山中温泉から10数キロ南に行ったところにありまして、くわしい場所はこの地図を見ていただければ分かるんですけれども、大聖寺川が丁度中央に流れておりまして、その横に昭和54年に史跡指定を受けました九谷磁器窯跡(くたにじきようせき)というのがあります。それがこの緑色のところですね、でこの磁器窯跡はいったい何の史跡かといいますと、17世紀に焼かれました九谷1号窯、九谷2号窯、それから江戸の終わりの19世紀に稼働しておりました吉田屋窯(よしだやよう)、この3つの窯跡を保存するためのA遺跡指定地になっております。
九谷A遺跡というのは、九谷磁器窯跡の大聖寺川を挟みまして対岸の約2万平米、これが九谷A遺跡と言われるところです。昔、ダムの建設工事前は九谷町集落の方がここに住んでおられた場所ということになります。
中矢進一氏 >
祖父にあたられる初代のお話をされましたけども、先生から見られて初代の八十吉先生が一生を捧げて古九谷の色を研究されました。この初代のもっておられた、古九谷観「古九谷ってこういうもんだ」というものを先生のお分かりになる範囲で結構ですので、テレビを見ておられる皆さんにちょっと紹介をいただけないでしょうか。
藤田邦雄氏 >
黄色だ、緑だといっていましてもね、中々この番組を見ている方には分かりにくいと思うんです、私は実際のものについて、少し話をしてみたいと思います。

 
九谷A遺跡(写真 石川県埋蔵文化財センター)
収録ビデオ画面より

中矢進一氏 >
それでは2点目でございますけれども、この九谷A遺跡におけるいわゆる江戸前期の屋敷跡遺構だとか、そこからまた出土した出土品等々の特徴ある点だとか、すこし歴史的背景を含めまして、お話ししていただければと思います。
藤田邦雄氏 >
九谷A遺跡は、大きく時期的には3時期に分けることができるんです。1番最初は戦国時代、これは15世紀後半以降のことですけども、それと江戸時代前期ですね、これはちょうど九谷の窯跡が稼働している時です。そして3つ目が江戸後期19世紀吉田屋窯が動いている時ですけど、この大きく3つに分けることができます。

 
九谷A遺跡(写真 石川県埋蔵文化財センター)
収録ビデオ画面より

 
今おっしゃいました江戸前期の屋敷跡というのは、九谷のA遺跡のこれちょうど山ですけど山の裾を盛り土造成しまして、つまりたくさんの人間の力で盛り土、そこに大きな屋敷跡を築いているということですね。屋敷跡の特徴といたしましては、だいたい1m位盛り土いたしまして、そこにこの写真、分かりにくいんですけれども、ここに石垣があるのが分かるでしょうかね、石垣とか、それからここに礎石建ちの建物とか、この写真では分かりにくいんですけれども、そういった一般の山村集落にでてくることがないような大規模な建物だとか、それから大がかりな道路跡とか、そういったものがこの江戸前期の屋敷跡で確認されているわけです。
その中から、この青手がどうか分かりませんけれども、青手風の色絵の破片が出ているということですね、今までこの九谷A遺跡というのは九谷集落の下にありましたから、今まで下を掘られたことはなかったんです、それが今回の調査によって初めて下の遺構が確認できたということで、この遺構があったところも水田とか、それから住宅建っていたとか、そういった下を掘ることによって、初めて今回のことが分かったというとことです。

収録ビデオ画面より

 
九谷で問題になるのは、どういった色絵が焼かれていたかということなんですけれども、それは実際よく分かっていないんです。ただ、こういった風にこれは大皿の破片だと思いますけれども、緑色で塗り埋められて、そしてここに卍文が書かれています。そういったものが確実にこの九谷の窯跡で焼かれていたことを証明する一つの大きな材料になると思います。
中矢進一氏 >
従来、九谷の調査におきましては、そうした色絵の破片等が、確認されてきてはおるんですけれども、実際にこの九谷の村の中で上絵付いわゆる色絵付が行われてきたかどうかについては、常に論議の的になったわけですが、この今回の九谷A遺跡の発掘において、その色絵付窯と思われる焼土遺構が発見されたということなんですが、この遺構について少し詳しくお話しをしていただけないでしょうか。
藤田邦雄氏 >
今まで九谷A遺跡からは何点もの色絵磁器が出てきているんです。ところが、じゃあいったいそれをどこで焼いていたかというのが、一番の問題だと思います。今回平成12年にそういった色絵を付けた可能性のある、焼土遺構というのが見つかっております。場所はここに九谷磁器窯跡がありまして、ここに焼土遺構とありますけど、先程の江戸時代の屋敷跡から南に約80m程の場所にその焼土遺構が発見されました。ここが九谷の窯跡ですので、この大聖寺川を渡って向い側ということになります。

 
収録ビデオ画面より

 
今までこの九谷の色絵というのは、どこでされていたものか、一切分からなかったわけです。一つの案としては、ここで本焼して、大聖寺城下へ持って帰って色を付けた、そういう考えもありましたし、いややはり地元で色を付けたんだ、そういう考えもあったわけです。それが今回の焼土遺構の発見によって、大聖寺城下ではなく地元で本焼して、それから地元で上絵付をした可能性が高いんじゃないか、そういったことが分かったわけです。
この遺構については、7つの焼土遺構が見つかっております。その中で最も条件のいいのが、この写真の焼土遺構になりまして、だいたい一辺1m位、これ四角く粘土を貼っております。そして、真ん中赤いですね、これたいへん強い火が当たって、だいたい60㎝位直径あるんですけれども、そこが赤く焼けております。よく見ますと、この真中中心部に直径25㎝位の窪みがあるのが分かると思います。それで我々は窪みの内窯に支脚を置いて、そして円筒形のところに外窯を設けて絵付をしたんじゃないかと、そういう仮説をたてているわけです。上絵窯の構造というのは言葉では説明しづらいですけども、円筒形の筒のようなものを2つ、内窯と外窯とを重ねまして、それからここに焚口がありますけれども、この焚口のところから火を焚いて、絵を付けるという、上絵付は本窯のように1200度~1300度はいりません、だいたい800度前後で焼くと思われますので、こういう小さい窯でも対応できるというわけです。この薪で焚く上絵窯というのは、現在小松市の錦窯展示館あそこに、かつて徳田八十吉さんが使っておりました、昭和時代の上絵窯が残っておりますけれども、それとよく似た構造ではなかったかと予想しております。
この上絵をするには、窯が2種類あるわけです。こういった薪で焚く上絵窯と、それからもう一つ炭で焚く上絵窯というものがあります。今まで確認されているところでは、京都とかそれから愛知県の瀬戸地方そういったところでは、炭で焚く上絵窯が確認されています。九州の有田などでは、19世紀になりますと薪で焚くそういった上絵窯が確認されているんですけれども、じゃあこういった薪で焚く上絵窯が日本でいつからあったかというのが、よく分からなかったんですね。これが仮に上絵窯で、そして17世紀の真中から後期になりますと、これは国内で一番古い薪で焚く上絵窯の遺構ということになります。ですからそういったことを含めて今回の九谷A遺跡の調査の中でこの上絵窯の発見というのは単に九谷焼だけでなくて、日本の陶磁史を考える上でもたいへん重要な発見となったわけであります。
中矢進一氏 >
それでは、この九谷A遺跡の発掘に関連いたしまして、平成13年から大聖寺川の川岸それから集落の周辺部で発掘調査が引き続き行われまして、その中で特に注目すべき江戸後期の江戸時代後期の九谷を語る上で注目すべき遺跡・遺構の出土品が出たわけですが、それについてさらに詳しいお話をしていただきますでしょうか。
藤田邦雄氏 >
場所的には、先程からお話しているのが大聖寺川の左岸といいますか、こちらの九谷町の集落の方の話を主にさせていただいておりますけれども、この九谷磁器窯跡のこの周辺部L字型になったところですね、ここも平成11年に発掘調査をしております。その時にここに吉田屋窯がありますけれども、その丁度向いのあたりで、このあたりから掘っ立て柱の建物の跡とか、それから陶土、水簸(すいひ)した陶土を入れたそういう穴とか、そういったおそらく吉田屋窯の工房の跡じゃないかというような遺構がでてきたわけなんです。

 
収録ビデオ画面より

 
その時に一緒にでましたのがこういった、これ素焼きの鉢だと思いますけど四角い鉢になると思います、そういったものの破片ですね。これですね、見ていただきますと、これがそれです。裏はこうなっていまして、これが表側になって、こういう四角い鉢になるわけなんですけども、その底に字が書いてあるわけなんですね、これがなんて書いてあるのかといいますと、これ文政の「政」です。ちょっと文というところは欠けて分かりませんけれども、おそらく文政七年、甲(キノエ)、申(サル)で、ここは八月の「八」でしょうか、ちょっと分かりませんけれども、月(ツキ)・日(ヒ)と書いてあります、文政七・甲・申・八月日でしょうか、そしてその横には何か上に字が書いてありまして、その下に大聖寺、九谷、これがちょうど繋がりまして、九谷焼の「焼」という字の火偏が見えているんですね。ですから、ここがもしかしたら、加州の「州」じゃないかと予想しております。大聖寺九谷焼とここに2つ見えます、これが「前」いう字ですね、「前国」ですから、たとえばもしかしたら肥前、備前、越前、いろいろ「前」という国はありますけれども、そういう国が書かれております。そして、最後にこれはおそらくこの鉢を作った作者の名前かも知れません。けれども、ここにハンコが押してあるんですね、ですからこのこれを削った人、書いた人はどなたかわかりませんけれども、この文政7年に大聖寺の九谷で、どこどこの国の出身の私がこういったものを作りましたよという、そういった資料がでてきたわけですね。
吉田屋窯につきましては、「吉田屋文書」で文政6年から準備にかかって、文政7年に初窯を焚いた。そういったことは皆さん当たり前のように思っていますけれども、本当にそうだったのかと、それは文献の上からだけ確認されたものでして、実際に発掘調査でこういう文政7年という記年銘が出てきたということで、改めて文献を裏付けるといいますか、現場でも吉田屋窯が、その時期から稼働し始めていた可能性があるということを裏付ける資料になったわけです。
この写真が吉田屋窯の工房跡と思われる写真ですけども、ここに少し水面(ミナモ)が写っておりますけど、これが杉ノ水川になります。そして、ここに石列が見えますけれども、これが護岸の石列になります。この石列からこちらの杉ノ水川沿いにつきましては、これは遺構のないところです。昔、川があったところですね。だから、工房跡はこの石列からこちら側になります。たいへん狭いところですけれども、ここにつきましては国の指定の遺跡ですから掘ることは今はできないわけです。ここにこういう穴とか開いていますけれども、こういったものが工房跡と思われて、この素焼きの鉢はこの護岸の近く、こういったところから出ています。
中矢進一氏 >
それでは、最後になりますけれども、藤田さんの方からいろいろと説明を受けました九谷A遺跡等でございますが、最近の新聞報道によりますと国の指定史跡の追加指定にどうやら九谷A遺跡を中心とする遺跡等が、国の方から答申を受けたということがありましたが、そこらあたりを少しいきさつを含めて詳しくお話を聞かしていただけますか。またどういう意義があの遺跡にはあるかを含めましてお願いします。
藤田邦雄氏 >
確か九谷A遺跡の追加指定の答申がでたのは、11月19日だったと思いますけれども、それが新聞に大きく出たとおりですけれども、だいたいのところどの場所かといいますと、やはり重要な遺跡、遺構が固まっている、この山側の1万2千平米、それが国の追加指定ということになりました。実際の九谷A遺跡は2万平米程あるんですけど、その中でも特に重要と思われるところということになります。
今現地に行っていただくと分かるんですけれども、この道路ですね、この発掘調査そのものが九谷ダムの建設に伴います、県道および町道の付け替え工事のための発掘調査、これが発端だったんですね、ですから今行きますと、この辺に付け替えられた県道、町道が工事をしております。ですから、残念ながら県道、町道の下につきましては、道路になってしまっていますので、これは指定の史跡にはなりませんけれども、その道路から外れたところ、その場所が追加指定ということになるわけです。何の追加かといいますと、ここが先程いいましたように昭和54年に九谷磁器窯跡ということで、指定されましたけれども、それと極めて関連が強い、九谷磁器窯跡の窯跡と合わせて工房跡、そういった磁器生産が一貫して行われたということを証明する手立てである。そういった意味合いがありまして、この場所は追加指定になったわけです。
この追加指定につきましては、山中町の九谷A遺跡とそれから加賀市の山代再興九谷窯跡、これが合わせて追加指定になっております。といいますのは、九谷磁器窯跡にあるのが17世紀の九谷窯だけではなくて、吉田屋窯これも今現在史跡になっておりますけれども、これもどういう流れで加賀市に行ったかというのは、山代の再興九谷窯跡指定をして初めてこれもやはり一貫した流れの中で説明できるということになります。そういった意味で、山中町それから加賀市合わせた形での追加指定ということになりました。これは本当にあの関係者の方たくさんいらっしゃいますけども、その多くの方の協力によって初めて成しえられたことだと思っております。
ご存知のように九谷というのはたいへん山深いところで、なかなか行きづらいところですけども、こういった国の追加指定がされたことによって、またたくさんの方が見に来られたり、実際に行ってみられたり、それから保存されることが決まったわけですけど、じゃあ保存したところを今後どのような形で整備していくか、これは、これからの本当に大きな課題だと思います。それによってこの九谷A遺跡また九谷磁器窯跡を含めて、どのような活用のされ方がなされるか、それぞれ本当に決まる重要なポイントとなると思いますので、これからの九谷は、これはもう伝世品とかのそういう製品のみならず、こういう遺跡の方も皆さんに注目していただきたいと思います。
対談終了
司会 >
中矢さん藤田さんのお話しにもありましたが、九谷A遺跡の調査というのは、九谷の研究に非常に意義のあるものが出土してきたということでいらっしゃいますね。
中矢進一氏 >
そういうことですね。そういうこともありまして、この度3月2日付で国の官報に正式に追加指定ということで掲載されております。ここに「史跡に地域を追加して指定する件」というのがあります。これがページをめくりますと記載されております。ここに九谷磁器窯跡という名称があります、そしてこの2段目、3段目に山代温泉の吉田屋の窯跡とそしてこちらの九谷A遺跡と称されるところが追加指定ということが、ここに記載をされているわけであります。これによりまして九谷の歴史を一体化の中でこれを保存、活用していこうということがここに示されているわけですね。

収録ビデオ画面より


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