司会 >
今回は、元金沢美術工芸大学学長の北出不二雄先生と重要無形文化財人間国宝でいらっしゃいます、三代徳田八十吉先生にお話をお伺いしております。まず北出先生は地元の方もよくご存知でいらっしゃると思いますがご紹介をお願いします。
中矢副館長 >
北出不二雄先生は、元金沢美術工芸大学学長を務められていましたし、そして日展作家としての活躍されておられます。そしてまた先生の窯元青泉窯と申しますけども、これは大変歴史のある九谷焼の古い窯元で九谷の伝統というものを継承してこられている窯元でもあります
司会 >
それでは、元金沢美術工芸大学学長の北出不二雄先生に「九谷の伝統」について、お話しを伺っております。VTRをご覧ください。
対談
中矢進一氏 >
先生の思っておられる古九谷感、そういったことを少しお聞かせ願いますでしょうか。
北出不二雄氏 >
その絵を描いた焼物といいますか、特に色絵の焼物というのは、日本では伊万里、鍋島、柿右衛門、有田付近でできたものと、それに対して古九谷というのは、中国にもそのような色絵があるんですけども、その中で古九谷と他の色絵と比べてどのような特色があるかといいますと、それらの中で最もなんていいますか、写実性の強い絵を描いておる。模様というよりは、絵を描いているというところが、非常に九谷の特色として大きなものだと。では柿右衛門はどうだといいますと、柿右衛門も確かに絵を描いております、たとえば岩に鳥が止まって、そこに花木が生えておって赤いきれいな花が咲いている、というような模様のあり方、一つのパターンとなったものは全く柿右衛門様式といわれる、一つの独特の雰囲気といいますか、そういうものを持っておりますね。
ところが九谷の場合は、ここにもありますけども、ここに描かれておる模様というのは、一つ一つ違う訳です。いかにも絵画、その当時の絵画からとってきたような模様が描かれておる。器物の上に絵を描くときには、邪魔になる部分、たとえば縁なんか、いっしょくたに絵を描くときには、邪魔になる部分なわけです。そういうものは、縁だけは別の模様でいろんな模様を描いていく、これを額縁にしながら見込みに絵画的な模様を描いていく、こういうやり方はつまり絵を付ける、九谷では絵付けと言いますけども、その絵を付けるやり方が独特の工夫をこらされ、あくまでも絵画的な模様を作ってきた、これは古九谷から永い間断絶しておって吉田屋なんかが始まっても、そのやり方で中に描いてあるものは、時代に応じていくらか違ってくるけれども、そういう模様構成のあり方というものは、九谷独特のものがあるというふうに思っております。


収録ビデオ画面より

 
それじゃ立体のものはどうするんだ。ここに一つ立体の大きいやつが、徳利の大きいやつが出ております。そういうやつはどうするんだといいますと、これも同じように首のところ、胴のところの締まったところ、下の部分というふうに、そのへんを模様化したもので、帯でとって、そしてその区画された中に平面性のある絵を描くということは、あくまでやっているのは、中に描かれているものは絵画的であるから、そういうことをしようとしたんだし、それが成功している例なわけですね。
たとえば、同じく有田の焼物にしましても柿右衛門といいましたけども、伊万里と云われる一般的なものにしても、かなり模様化されておって九谷のような中身が絵画的に近いものは非常に少なくなってきておるというところがありまして、やっぱりそれは中国のものと比べてもそういうところがあるということで、九谷は非常に平面性の強い絵画的なものを構成のやり方によって模様化しておるということが特色と思います。

 
収録ビデオ画面より

中矢進一氏 >
それでは、その使われている絵具ですね、九谷は九谷特有の絵具の特徴があるかと思うんですが、他のたとえば有田あたりと比べての特徴というのはどういうことですか、賦彩方法を含めてお願いします。
北出不二雄氏 >
九谷の場合は、これは歴史が関係していると思います。伊万里の場合は磁器ができて最初に描かれた絵は染付なんです。染付の中にだんだん染付以外の色絵が入ってくるときに、染付の一部を消してそれを色絵に置き換えていくという形で模様が発達してきていると思うんです。ところが九谷の場合は、始めから色絵のものにはほとんど染付の模様抜きで色絵だけで模様を作るということを始めからやっております。そこら辺が、向こうと非常に違うところですね。
中矢進一氏 >
よく言われている、九谷古窯はできた当初から白素地の大きな素地を焼き始めた、これはとりもなおさずその上絵を前提にした素地というふうに考えてよいでしょうか。
北出不二雄氏 >
始めから上絵というものを考えたものが、発掘したものの中にもそういうものが多く出てきている。ところが伊万里の場合は始めからずうっと全部染付でやる染付の時代、それも当初は朝鮮系の染付であり、中国系の染付があり、そして日本的になってゆき、そうしてるうちに染付を幾分か減らして省略しながら色絵を加えていくという風な形で歴史的に進んでおる、九谷の場合はいきなり色絵で出発して色絵で終わっているということです。
中矢進一氏 >
これは上絵の仕事と、白素地のを作る仕事は本来分業ということで、別の仕事であると、そうしますと九谷古窯というものが生まれたのが、1655年、明暦元年、それ以前に白素地供給窯である九谷古窯の開窯以前に色絵の技術というのは九谷の方にというか、この加賀の方にきていた可能性はこれはあると考えてもいいんでしょうか、開窯準備期間中に。
北出不二雄氏 >
九谷で焼かれたものももちろんありますし、それ以外に九州でできた素地をこちらへ運んで活用したという例が非常に多いんじゃないかと思っています。それは、いろんな推測的なことは言われていますけども、そうでなくて現実のものを見た上で、そういうふうに感ずるのは大きな皿やなんかでも、裏模様と表模様とがあるんです。裏模様の中に染付で描かれておって、表には全然染付がない、どちらが先に描かれたかといいますと、染付の方が先に決まっているわけです。こんなもんで素地ができたときにもう染付はできているわけです。だから裏模様が先にできて、そして表模様のないものが、なぜそういうやり方したのかと、そのへんのところが分からんところがあるけれども、そういう素地というものは、よそへ運んで絵付けをすることが可能な素地なわけです。それがたとえば丸尾窯ですか、あすこの窯からたくさん出てきて、それが多分九谷で活用されたんじゃないかと私は個人的にはそう考えておりますね。
中矢進一氏 >
いわゆる素地移入説というところですよね。
北出不二雄氏 >
それは裏模様と表模様を同時に観ることは普通にはできない訳です。ところが石川県立美術館がやった古九谷展の図録を昭和47~48年でしたかあるんですが、それで表の模様そのとなりのページの裏模様というのがあって、それの本の糸が切れて、崩れてしまって一枚づつ並べることができるような本を持っていましたもので、いろいろ並べ替えて、そういうことがあるなあ、ということを気がついたんです。だから本も普通は壊れたやつは役に立たないんだけどそういうことがあるんです。
中矢進一氏 >
要するに裏模様の染付の模様と表の上絵の模様とで連続性というか共通性がないということですね。
北出不二雄氏 >
表模様描いてしまってから、裏模様をこれに合わせた模様を描くのが、当たり前普通なんです。私は現在やっている皿のようなもんに絵を付けるときは、中を描いてからこれに合うような模様を裏に描く、古九谷の場合は全く関係のないもんが描かれている。
中矢進一氏 >
その素地の問題というのが、一つ九谷にはあるわけで、先生言われた丸尾窯とか、有田の山辺田窯だとかという素地に、加賀で付けられたもののある可能性があるいうことなんですけども、最近先生お持ちの古九谷のお皿の分析を依頼をされてその結果、問題なく九谷の陶石であるというふうに判定されたということがあるらしいですが。

 
  古九谷色絵端皿 北出不二雄氏蔵    

北出不二雄氏 >
たまたま、石川県の工業試験場にこういうことに興味を持っておられる焼物に関係した人がいまして、たまたま放射化分析という分析があって、微量しか含まない元素を分析するものがあって、それによって九谷と伊万里との素地が判別することができるという話がありまして、何か資料がないか、これが九谷でできたと思われる素地がないかと言われたんで、私はこれは伊万里でなくて九谷でできたもんに間違いないというのを2点ばかりありましたんで、それをお見せしたら、これこそ九谷であるということが分析の結果証明されたという、中井泉さんという人でしたか。
中矢進一氏 >
東京理科大学の中井泉教授ですね。
北出不二雄氏 >
そういうことがありまして、それが新聞にでとる、この皿ですね。
中矢進一氏 >
先生そうしますと、その結果どういうことがいえるんでしょうか。間違いなく九谷の土で作った皿の上に古九谷の絵具が載っているということを証明した訳ですけども、このことによって古九谷の色絵の技術というのが、間違いなく古九谷の時代に九谷にあったというふうに・・・。
北出不二雄氏 >
よそから持ってきた素地に絵を付けたこともあるけれども、九谷でできた素地も、九谷の絵付けの材料として、使われたということが一応証明されたと考えられる訳です。その論争に関しては私も時間があれば、そのものの写真を載せながらいろんなことを書いてみたいと思わないではないですけど。
これからの九谷焼はどうであろうかということになりますと、やっぱりその今までの九谷の模様の作り方がそうであったから今後もそのような模様を作らないと九谷ではないんだということは全くなくて、そういうものから脱皮した新しい九谷をこれから作っていくということが、今後の若い人に課された問題であろうと思います。そんならいったいどういうふうにするかというのは、これは個々の方々が考えていかれることではないかと思いますし、そのような芽は徐々に芽生えつつあるというふうに考えております。その辺も応援をしてやっていただきたいと思います。
対談終了
司会 >
中矢さん、北出先生は九谷の伝統というものを非常に重要視されていらっしゃいましたね。
中矢進一氏 >
そうですね、やはり窯元としての伝統というものを受け継いでいるということと、それから先生は古九谷研究家でもいらっしゃって。そういう上絵の絵付けの形からこの問題を深く探っておられます。素地の移入説もさることながら、後半の東京理科大学の中井泉教授による分析の結果ですね、九谷素地の古九谷が現存したとういうことが証明されたということは大変大きな意義があることだと思っています。

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