司会 >
続きまして、重要無形文化財人間国宝でいらっしゃいます、徳田八十吉先生のお話をVTRでご覧ください。
対談
中矢進一氏 >
特に古九谷の色と九谷の伝統についてということで、お話を伺いたいと思います。まず第一点ですが徳田先生の彩釉磁器の色の世界の基本は古九谷にあるんだということを以前から先生おっしゃっておられます。そこで先生の古九谷観、とりわけ古九谷の色について、先生の思っておられることを聞かせてください。
徳田八十吉氏 >
私は、学者でありませんので、古九谷がどこでできたかということについては、学者に任すべきでいいと思っているんです。ただ古九谷というものは、吉田屋もそうなんですけども、やっぱり決めるものは素地もそうなんですけれども、私は色にあるというふうに思っているんです。それで明治から大正にかけて古九谷が非常に高価な時代に、先輩のやっぱり商社の人が悪いんかもしれませんが、ずいぶんいろんなものを古九谷だ、古九谷だといって、取り込んだ時代があるんですよ。うちの祖父は本当に古九谷、吉田屋が好きで、そういうものの復元を一生かけてやった人ですけれども、うちのじいさんがやった仕事というのは、非常に限られておりましてね、古九谷といっても、そういう非常に種類が多いものじゃなくて、古九谷というある一つの定着した色ですよね。そういうものしかやってないんです。じいさんがそう思っていた古九谷、吉田屋がそう思っていた古九谷、というものは限定されたものだと私は思っておるんです。
中矢進一氏 >
祖父にあたられる初代のお話をされましたけども、先生から見られて初代の八十吉先生が一生を捧げて古九谷の色を研究されました。この初代のもっておられた、古九谷観「古九谷ってこういうもんだ」というものを先生のお分かりになる範囲で結構ですので、テレビを見ておられる皆さんにちょっと紹介をいただけないでしょうか。
徳田八十吉氏 >
黄色だ、緑だといっていましてもね、中々この番組を見ている方には分かりにくいと思うんです、私は実際のものについて、少し話をしてみたいと思います。

   
古九谷   吉田屋窯   初代徳田八十吉
収録ビデオ画面より

 
これが350年前に始って、300年前に終わった50年位焼かれた古九谷と言われているものの典型的なものですが、まずこの色を・・・。約50年間で古九谷はなくなったといわれています。
今から200年程前に吉田屋のそういうその人たちが中心になって、こういう焼物が生まれてきました。さっきお目にかけた古九谷と、そっくりでしょ。これも吉田屋です。古九谷と吉田屋の間は100年位あるんですが、古九谷が焼かれたといわれている九谷村の山の中に窯を築いて、そして同じような系統の焼物を再現しようとした。だから吉田屋の人たちというのは、古九谷がこちらで焼かれたということを信じていたというふうに思います。
吉田屋から後、また100年をかけてうちのじいさんが、明治30年頃に当然のことながら、古九谷が加賀で焼かれてますから、吉田屋が当然加賀で焼かれてますから、そういうものは九谷焼の一番古い物、そういう伝統、そういう流れ、そういうものに惚れ込んで作り始めたのが、こういうものなんです。うちのじいさんが作ったものです。これは、80歳のときに描いたものです。これもまた、私の祖父の作ったものです。ずうと流して見て下さい。全く同じ系統の色でしょ。300年前、200年前、100年前こういう色の流れというものが、ずっと伝わってきている。それが古九谷の色の流れだと、彩釉といわれる古九谷の色といわれる流れです。

   
収録ビデオ画面より

 
もう一度同じように繰り返し見ます。これが古九谷、これが吉田屋、これが私の祖父、これは私が作ったものです。私の25~26才だったと思うんですが、私にこういう技術が残ったわけです。そして、今やっている仕事はこういうことだと、しかし色はそのまんま同じなんです。色の流れというのは同じで、彩釉の流れというのは古九谷から私に至るまで、いや私だけではありません、九谷焼をやっているたくさんの人達が同じ流れの色を使っています。
今、古九谷というのは、有田焼だという人がたくさんいます。有田焼だと仮にしますと、350年前から300年前その50年間に焼かれて、プッツリ消えて後は0です。何もないんです。有田には影も形もありません。九谷の最初の頃は有田だといわれています。しかし、私達それから、じいさん、吉田屋と下から眺めてくると、この流れの中で九谷焼があるということが、よく分かっていただけると思うんです。
九谷焼というのは古九谷からの流れにあるんです。これが有田であるか九谷であるか、私は知りません、しかし200年前の吉田屋も、100年前のじいさんも、今の私も古九谷というのは、こちらで焼かれたもんだと信じてこの流れを守っておるというのが私達の立場です。ですから、後は学者先生が研究してくれればいいのであって、ただ流れというのは300年間滔々と九谷焼の中に流れてきた、有田は350年から300年前に50年間、古九谷というのはあったと、突然消えて影も形もない、いまだに、これが私の実感です。
中矢進一氏 >
それでは3点目、最後になりますけれども、いわゆる古九谷は九州の有田産なのか、それとも加賀産なのかという、いわゆる産地論争について、また九谷の実作者の立場からこういう九谷の伝統という視点から、是非先生の忌憚のないお考えをお聞かせ下さい。
徳田八十吉氏 >
私はね、祖父から聞いた話とか、そういうことで私なりの古九谷観というものはあります。しかしここでそういう裏付けのない、言って見れば私にとれば伝聞、そういう話はここでは避けたいと思います。ただ、非常にはっきり言えることは古九谷というものは、非常に範囲の狭いものだと私は思っているんですよ。それを明治の中頃から大正期にかけて、古九谷は高かったですから、有田、伊万里と比較して高かったから、片っ端からいろんなものを特に有田でできたものを古九谷だと取り込んだ、古九谷として売ったわけですね。それが、古九谷論争を複雑にしたと、だからそういう虚雑物を取り除いていって、そして九谷の中に残っている、古九谷、吉田屋、そしてあの金ピカの時代にも連綿として、その系統は残ったんですから、そして残っているその本筋の九谷焼というものにもう一度光を当て直さないと、虚雑物を除く作業を今後していかなければいけないと思うしそうすることによって古九谷というものの本当の姿が浮かび上がってくるんじゃないかと僕は思っているんです。
それで有田の人達と最近話をするんですがね、古九谷というものの鑑定はやはり九谷の人が一番よく分かっているし、僕たちが一番よく分かっています。有田の人達は、有田の鑑定はできても古九谷の鑑定には非常に甘い。今、古九谷の鑑定している人達は有田なんです。だから有田焼を古九谷と鑑定するもんだから我々にとっては、全く関係のないものだからね。私どもは本当に古九谷と言われてきたもの、そういうものの元の姿を僕たちは知っていますから、これが古九谷と云われてきたものですよということを残していこうと、ただそれが有田で焼かれた、九谷で焼かれたかというこの論争は、私は学者でありませんので、あくまで推論でしかしゃべれないし、じいさんから聞いた伝聞でしかしゃべれない。しかし、僕なりに意見はありますけどね、それはまた後日に回したいと思います。
有田焼の作家も言っているんですよ、はっきりと、最近古九谷と認定されているものの中に、どう考えても有田でないものが入っていると、柿右衛門さんも言っているし、井上萬二さんも言っている。だって彼らちゃんと見りゃ分かりますからね。どう考えたって有田ではない素地、我々側にすると、こりゃ九谷焼の新しいものだとはっきり分かりますからね、だから向こうで変だと言い出している、こちらでは無茶苦茶やっているなと言っていると。まあ現状はそうじゃないですか。ですからもう少し古九谷というものをまじめに見る人達がでてこないといけないんじゃないかと、僕は思っていますけどね。
あと短い人生だし、真実かどうか分からないけど教えられたこと、こういうふうに言われた、決してじいさんだけじゃありません。私の周辺にはもう古九谷、吉田屋そういうことを専門にやっていた道具屋さんとか、うちの近所にたくさんいらっしゃいましたからね、私のじいさん位の年配の人達、その人達が吉田屋の同世代に生きた近い人達なんですが、そういう人達が吉田屋も含めて古九谷をどう見ていたか、そういう話を僕達にして死んでいってるわけですからね。だから僕達もそういう聞かされた話を、それが本当かどうかわかりませんよ、ひょっとすると200年前には有田側に言わせると200年前から石川県の人たちができたことは間違いだと言うんですから、200年前からすごい話なんですよ。だから私はじいさんから聞いた話ですから、200年前から間違っていたんですね。だからそれが正しいかどうかと言うことについては、論及しないと言うこといってますんで、だた今のようなそういう古九谷をどんどん、どんどん古九谷の数が増えて広がっていく、古九谷が有田でできたんだから、明らかに有田焼というものも古九谷の中に含まれている。これは、恐らく吉田屋にしたって、うちのじいさんにしたって、古九谷、吉田屋を信奉してきた、我々の仲間にしたってですね、非常にこう心外なことだと、言わざるを得ないということでしょうかね。ですから、有田の連中だって変だといいだしていますよ、当然です。私は有田を否定しないんですよ。絵付けはどこで付けたという問題は別にして、素地が有田で焼かれて、古九谷と云われる色が付いてる、これはけっして否定しません、しかしそうでないものが、古九谷の中に入り込んでいる、これは私は我慢できない。そして、それについて有田の我々の友達の柿右衛門とか萬二とか、ごめんね呼び捨てにして悪いけれども、彼らが変じゃないかと言い出しておるのが、今の現状じゃないでしょうかね。
対談終了
司会 >
徳田先生は、九谷の伝統につきましても、特にその色、これは九谷特有のものであるというお考えをもってらっしゃる。
中矢進一氏 >
そうですね、実際に徳田家3代にわたって、伝わってきた色を使ってのお話、そしておうちに伝わった古九谷と吉田屋のあの名品の数々、そういったものを実際、私どもにお示しになりながら分かりやすく、色の伝統というものを説明して下さったと思います。

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