塚谷竹軒 文政9年~明治26年(1826~1893)

作風は青手古九谷を意識し模したものから吉田屋窯に比べやや意匠化されたものまでに及び、呉須の骨描きは吉田屋窯よりやや謹直したものが多い。同時期、山代村の宮本屋窯では赤絵細描一辺倒であったのを惜しみ、藩が青手中心のものを作らせたと言われている。
 陶画工には小松の粟生屋源右衛門、松屋菊三郎等がいた。

木崎卜什 文化7年~安政元年(1810~1854)

16歳で京都にて狩野派を学び、その後は有田、唐津で陶画を学ぶ、天保2年山代村に帰郷し自宅庭内に窯を築いて、赤絵細描に金彩を施した手法で製陶した。これが宮本屋の八郎手の誕生に大きな影響を与えたと思われる。嘉永年間、彦根藩に招かれ湖東焼の改良に尽力している。

木崎万亀 天保5年~明治28年(1834~1895)

卜什の長男。幼い頃より父に陶芸の教えを受ける。万延元年(1850)に藩主の命により京都の名工永樂和全に師事した。文久2年に自宅内に築いていた窯を、自宅と共に藩主より賜った山代の春日山に移した。永楽和全が九谷本窯再興の指導にきた際は、この春日山の木崎窯で作陶した。

竹内 吟秋 天保3年~大正2年(1832~1913)

大聖寺藩士浅井家の長男として生まれる。のち竹内家の養嗣子となる。士籍のとき飯田屋八郎右衛門から陶画を学ぶ。明治11年(1878)頃より素地の製法を塚谷竹軒や大蔵寿楽に学んだ。そして陶画工を養成すべきだとして私学校「惟新社」を設立した。明治12年(1879)には設立されたばかりの九谷陶器会社に総支配人として参画した。赤絵ばかりでなく九谷五彩を研究し、力強い筆致に優美で動きのある優品を多く作った。また、教育者として明治27年(1894)に石川県工業学校陶磁科教師し就任している。門人も多く石川県江沼地方の九谷焼の支柱となっている。

浅井一亳 天保7年~大正5年(1836~1916)

大聖寺藩士浅井家の二男、竹内吟秋は実兄になる。宮本屋窯で修行し、絵画や武術も学んだ。明治12年(1879)九谷陶器会社設立に際し画工長として参画した。明治14年(1881)に会社を退き兄吟秋、大蔵寿楽らと共に自営した。飯田屋八郎右衛門から継承した『方氏墨譜』の画題を取り入れた作品が多く、赤絵九谷の名手として名を馳せた。

初代中村秋塘 慶応元年~昭和3年(1865~1928)

幼少の頃から父より陶画の手ほどきを受け、後に竹内吟秋に師事し陶技を習得した。様々な展覧会に入賞を重ねる。大正2年(1913)には砡質手と称する新技法を発明する。大正6年(1917)に自宅に窯を築き作陶する。独特の優美で気品ある作品に定評があり、赤絵細描の名手であった。
現在、五代中村秋塘が、窯を継承し作陶を続けている。また、三代中村秋塘(中村翠恒)の家系は、現在中村元風が継承し作陶を続けている。

初代矢口永寿 明治3年~昭和27年(1870~1952)

山中で代々湯宿を営む家に生まれる。本名岩吉。生来の器用人で書画骨董に通じ、料理も巧みであったが青年時代に湯宿をやめ、関西へ出る。帰郷後、黒谷焼という楽焼を始める。明治37年(1904)、京都永樂家の高弟初代滝口加全をむかえ、京風の陶磁器を製陶する窯を築く。自らは永寿と号した。また明治39年、清水六兵衛の門人戸山寒山を招く。その後、能美や金沢から多数の陶工を集め、多くの佳作を残す。作品は祥瑞、交趾、仁清写、乾山写などの茶陶が多く、本歌をしのぐものも少なくない。
現在、四代矢口永寿が窯を継いで、作陶を続けている。

初代須田菁華 文久2年~昭和2年(1862~1927)

石川県金沢市泉町に生まれる。金沢と京都で製陶を学ぶ、明治16年(1883)に九谷陶器会社に招かれ、2年後画工長として腕を振るった。明治24年(1891)には会社が解散したのを機に独立して陶画を始めた。明治39年(1906)には菁華窯を築き、染付、祥瑞、呉須赤絵、古赤絵、古九谷などの倣古作品を得意とした。なかでも、その名(号 菁華)のとおり染付作品は秀でている。
 大正4年(1915)には、菁華窯を訪れた北大路魯山人が初めて陶芸に触れ開眼している。現在は、四代須田菁華が窯を継承し作陶を続けており、また後進の育成にも努めている。

大蔵寿楽 天保7年~大正7年(1836~1918)

松山村の前田清在門の次男として生まれる。松山窯の山本彦左衛門の指導を受ける。国学者藤掛八十城の養子となる。義父の管理する九谷本窯に従事し、永樂和全が招聘されたとき、その門下として活躍し寿楽の号を受ける。明治4年(1871)には塚谷竹軒と共に九谷本窯を譲り受け陶工として活躍した。明治14年(1881)からは九谷陶器会社を去り、自営に専念する。作品は染付の優品が多い。
 寿楽窯はここから始まり、現在は二代嶋田寿楽が同所にて窯を継承し作陶を続けている。また、同所には九谷焼の本流である吉田屋窯の遺構があり、「九谷焼窯跡展示館」として一般公開されている。

北出塔次郎 明治31年~昭和43年(1898~1968)

兵庫県三田市に生まれる。陶芸家を志し大正11年(1922)現石川県加賀市栄谷町の九谷焼窯元北出家の養子となる。昭和11年(1936)には富本憲吉が訪れ、憲吉より影響を受け現代感覚の手法を取入れた。このとき憲吉より青泉窯の窯名を贈られた。昭和31年(1956)に金沢美術工芸大学の教授となった。
作家活動としては、日展を中心に行い、文部大臣賞や九谷焼界では初めて日本芸術院賞を受賞した。伝統的な九谷焼の技法を受け継ぎながらも、その画風に大きな変革をもたらし、塔次郎風とでも言える現代九谷を確立した功績は大きい。
 現在、北出不二雄が青泉窯を継承している。不二雄氏は日展を中心に活躍、また教育者として元金沢美術工芸大学学長を歴任、石川県の九谷焼界の大きな支柱となっている。

硲三彩亭 明治28年~昭和52年(1895~1977)

東京に生まれる。洋画家名を伊之助、陶芸家名を三彩亭と称す。もともと洋画家でヒューザン会や二科会で活躍する。昭和8年(1933)パリに留学し、在学中にマチスに師事する。昭和11年(1936)に一水会の設立に参画した。昭和26年(1951)より九谷焼に魅せられしばしば来県し製陶する。昭和37年(1962)に加賀市吸坂町に移住しアトリエを構え、色絵九谷の制作活動を続けた。
 戦後、日本の洋画壇復興や芸術文化の向上に尽力したことや、現代九谷に新しい創造性を加えたその功績は大きい。
また、硲三彩亭の没後、硲紘一、海部公子がその遺志を継ぎ、作陶を続け、「硲伊之助美術館」も運営している


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