作風は、赤絵の細密描法を中心とするが、その上に金彩を施した赤絵金彩、また更に黄・緑・紺青を部分的に賦彩する赤絵彩色金彩も見られる。絵付主任には赤絵細描を得意とする染物工であった飯田屋八郎右衛門がおり、あまりにも卓越したその作風はその名から「飯田屋」とか「八郎手」とも呼ばれる。飯田屋八郎右衛門は、越前気比神社所蔵である、明の方干魯が万暦16年(1588年)に刊行した、『方氏墨譜』(墨のデザイン集)を見る機会に恵まれ、それを筆写して高尚豊富な画題を得て八郎右衛門独自の画風を大成させた。


赤絵彩色金彩許由図鉦鉢 宮本屋窯
(石川県九谷焼美術館蔵)
赤絵金彩松図瓢形大瓶 宮本屋窯
(石川県九谷焼美術館蔵)
赤絵彩色金彩牡丹獅子図深鉢 宮本屋窯
(石川県九谷焼美術館蔵)

宮本屋窯は、吉田屋窯廃絶後、同所(山代村の越中谷)にて吉田屋窯の支配人だった宮本屋宇右衛門がこれを譲り受け再稼働した窯である。はじめは吉田屋風の青手作品も作っていたと思われるが、時代の好みであろうか、赤絵細描が主力製品となっていった。赤絵細描の画風は、再興九谷の嚆矢である春日山窯の廃止を惜しんだ加賀藩士武田秀平(号 民山)が文政5年(1822年)に開窯した民山窯の作品や、京で絵画を学び肥前有田で陶画を習得して、天保2年に山代村の自宅庭内に窯を築いた木崎卜什の作品などにその端緒を見出すことができる。
 宮本屋宇右衛門の長子宮本屋利八は、山代に住み宮本屋窯開窯当初から窯の実質的な経営に携わっていた。その宮本屋利八のもとで、九谷庄三も赤絵を学んだと伝えられている。しかし、天保大飢饉や天保改革の余波で経営状態は決して良くなかった。その中で、弘化5年(1845年)宮本屋宇右衛門が没すると更に不振を早めた。嘉永5年(1852年)、飯田屋八郎右衛門の没後、若杉窯に従事していた軽海屋半兵衛が画工として宮本屋へ入り、嘉永から安政にかけて着画に腕をふるったが、安政6年、宇右衛門の跡を継いだ弟の理右衛門も没すると、その後不幸がつづき閉窯を余儀なくされた。


Copyrights (C) 2010 NPO法人さろんど九谷 加賀の九谷プロジェクト実行委員会,All Rights Reserved. mail