司会 >
「古九谷 その謎を追う」、この番組では古九谷産地論争について、お送りしたいと思います。こちらにいらっしゃいますのは、番組制作にご協力いただいきました、石川県九谷焼美術館副館長の中矢進一さんでいらっしゃいます。中矢さん、よろしくお願いします。
中矢さん、まず昨今言われています、九谷産地論争というのは、どういうものなんでしょうか。

中矢進一氏 >
実は今から350年前に、加賀大聖寺藩の九谷で誕生いたしました古九谷、実はこの古九谷は全てが肥前有田、伊万里の方で作られたものではないのかという論議であります。
肥前の古窯から古九谷に似た破片が出ておりまして、そういう物証から、そういう論考がずいぶん長い歴史の中で有力視されてきているのです。
司会 >
この番組では、8回シリーズで10名の方に古九谷産地論争について、お考えをお聞きしております、中矢さんこの10人の方はどんな方々なんでしょう。
中矢進一氏 >
実はですね、日本陶磁協会の発行いたしました、『陶説』それの第618号に九谷焼の特集なんですが、これに寄稿されておられる先生方を中心に10名の方に今回のインタビュー番組にでていただいたということでございます。

収録ビデオ画面より

司会 >
本日第1回目は、石川県立美術館館長の嶋崎先生のお話をお伺いしておりますが、嶋崎先生とおっしゃいますと古九谷に造詣の深い研究をなさっておられるということでございますね。
中矢進一氏 >
そうですね、永らく古九谷の研究の第一線で頑張ってこられまして、現在も様々な研究の結果というものが集まってきております。そのことについて、嶋崎先生が先生なりの考えをインタビューの中で答えられていますので、たいへん貴重な意見も聞けるというふうに私は思います。
 
対談
中矢進一氏 >
まず、最初ですが古九谷伊万里論、一般的に言われているものでございますが、これの説明と、古九谷伊万里論を説いていらっしゃる方の根拠といいますか、論拠というかそれはどういったところにあるんでしょうか。
嶋崎丞氏 >
この地域において古九谷というものは、九谷の原点であるという考え方を持っていますけれども、最近の東洋陶磁学会を含めて焼物研究家の間では、古九谷というものは実は九谷で焼かれたものじゃなくて、有田で全部焼かれたものであるという、そして伊万里の原点は実は古九谷なんだ、という考え方なんですね。だから古九谷伊万里論というのは、つまり古九谷というのは伊万里であるという考え方で、現在焼物の研究家の間ではほとんど定説化しているというのが現状だとこう申し上げていいと思います。
 そういう議論がでてきた理由は、昭和40年代に入りまして、古九谷窯の発掘もありましたけれども、有田側の古窯も宅地開発を含めて窯跡の発掘が始まったわけです。そしたら九谷側よりも有田側の窯跡から出てくる陶磁片が、あの有名な古九谷の今日伝わっている名品の素地に非常に近いものが、九谷側で出ないで有田側から出てくるということから、実は古九谷は伊万里で焼かれたものではないか、という意見がでてきた。これが古九谷伊万里論のスタートとこう言っていいと思います。
中矢進一氏 >
九谷側の古九谷窯の近年の発掘ですね、そこからいわゆる集落跡地等々の発掘の成果、最近富に注目を浴びている成果がいくつかあろうかと思いますが、どういったものでしょう。
嶋崎丞氏 >
九谷1号窯と、吉田屋の古い時代に焼かれた九谷の窯跡が、昭和45年から5、6年かかって発掘された。その時点での発掘品は、古九谷の素地だけしか出てないんです。何点かの色絵の陶磁片も出てましたけど、やはり伝世品というんでしょうか、今日伝わっている名品に近い陶磁片が、ほとんど九谷側から出ていない。

   
九谷1号窯
(石川埋蔵文化財センター
「九谷を掘る」)
  発掘陶磁片
(出光美術館図録「古九谷」)
  白磁大皿
(出光美術館図録「古九谷」)

 
しかし、今度の九谷A遺跡の中からは比較的九谷五彩と云われる、5つの色についての色絵付けをやられた陶磁片が何点かでてきているということ、それとそのA遺跡の集落の跡地から焼き物の上絵付けをやった工房跡じゃなかろうかというような遺跡の発掘調査も進んできた。
さらに私どもうれしいことなんですけど、その色絵付けをやった窯跡ではなかろうかと思われるものまで発掘されてでてきたということです。
まあ古九谷伊万里論を主張する有田側の人々にとってみれば、そういう色絵窯、色絵付けをやった跡が九谷側から全然発掘されてこないという段階では全部古九谷の優品というのは有田側で焼かれていたんではなかろうか、こう考えられていたわけなんです。
けれども、今度の九谷A遺跡から、今申し上げたような窯跡、工房跡、色絵付けの窯跡ではなかろうかというようなものが、新しく発掘されてきましたから、やはり古九谷といわれるものが全て有田で焼かれたものじゃなくて、私は九谷でも焼かれていたという証につながるんではなかろうかと、こう思っています。

 
発掘青手片
(出光美術館図録「古九谷」)
  九谷A遺跡 焼土遺構
(石川埋蔵文化財センター
「九谷を掘る」)

中矢進一氏 >
そこで嶋崎先生が、以前より唱えておられました、素地移入論(きじいにゅうろん)というのがございますけど、これをちょっと紹介していただけますか。
嶋崎丞氏 >
これはですね、先程から申し上げてきたように、その伝世品いわゆる名品といわれるものの素地がこちらではほとんど発掘されない、向こうから発掘された。そして一部色絵付けした陶磁片も有田側から出ているということが、この古九谷伊万里論が非常にエスカレートしてきた理由にもつながっているんですけど、私はやっぱりその絵付けの技法というんでしょうか、そういうものがこちらの九谷の研究家も何人かおっしゃてますけども、色絵の伝統というんでしょうか、そういった切り口から考えてみますと、やっぱり古九谷という色絵付け、彩色、色絵の感覚、そういうものは、伊万里に中々つながらないと思うんですね。
それよりもやっぱりこちらで初期の古九谷というものがあって、それがずうと今まで、吉田屋そしてまた今日でも青手の仕事をベースにおいた現代創作作品というんでしょうか、そういう作家活動をやっておられる方もおいでることは事実ですし、そしてそういうお仕事の伝統というものは有田側にありません。
それで、柿右衛門先生なんかよくおっしゃるんですけども、特に最近柿右衛門先生の展覧会に行きますと「俺のところの原点は古九谷だ」とこうおっしゃるんですけど「色絵というものをあなた制作者なのに分からないじゃない」とこう申し上げてまして大笑いになってまして、正直申し上げて柿右衛門さんが本当にそう思っておられるのか、亡くなられた今泉先生なんかは、柿右衛門先生ほどは思っておられなかった。やっぱり古九谷の色絵というのはやっぱり有田側、伊万里側と多少違うんではなかろうかというような認識をお持ちだったと思うんです。
私はそういう具合に分析して、やっぱり今から色絵の九谷での原点、スタートそれがどういう形で展開してきたかA遺跡を含めて調査研究というものが進めば、全く古九谷伊万里論で圧倒される一つの趨勢というんでしょうか、そういうものにある程度セーブがかかるんではなかろうかということを感じております。

 
青手土坡ニ牡丹図大平鉢
(石川県九谷焼美術館蔵)
  色絵百花手唐人物図大平鉢
(石川県九谷焼美術館蔵)

中矢進一氏 >
つまり、前田家が有田の白素地を大量に買い付けて、そしてそれを九谷側で絵付けをした、それが我々のいうところの古九谷の名品、名器ではなかろうかということにつながっていくわけなんですね。
嶋崎丞氏 >
そうなんです。というのはこちら側に先程申し上げたように、その素地というものの名品につながるものが発掘されておりませんで、向こう側にあることは事実です。しかし今申し上げた色絵の窯跡らしきものが九谷A遺跡からでている、そうするとこちらの素地の上に色絵付けをしたものが伝世品につながってきませんから、そうすると絵付けの技術は完成している。しかし素地が中々それなりのものが第1号窯を含めて中々完成しなかったんではなかろうか。そうするとその素地をもってきて、私はこちらの新しく発見された九谷A遺跡を中心とするようなところで絵付けがやられていたんではなかろうか。だから私は九谷A遺跡のこの調査研究が進まない段階では、大聖寺藩邸内あたりへ馬の背中に素地を載っけてですね、そして後藤才次郎も何人かいますから、お給料の金額からいいますと3人目の後藤才次郎あたりが、その素地を焼いた本格的な後藤才次郎よりちょっとランクの低いもんですから、絵付けなんかも3人目の才次郎を中心として大聖寺で焼かれていたんではなかろうかと、それには素地というものをこちらでできていませんから、向こうから移入したんではないか、その1つの便法として北前船を中心とする西回り航路というのは、普通いわれているより早くから開けていたと思ってますので、そういう形で素地を持ってきて、こちらで絵付けをやったんではなかろうか。
ただ、これについては、その素地の制作年代と古九谷というものの色絵付けされた伝世品の年代設定という考え方が、九谷側と有田側との間に多少ずれがあるんですね。これについては、まだまだ大いに議論が残っていると思っていますけれども、いまだにそれは固執してこの考え方は私自身があまり変える気持ちはありません。

 
白磁大鉢(石川県立美術館寄託品)

中矢進一氏 >
むしろ、その素地の伝統よりも、加賀好み、前田好みのその絵付けの伝統が加賀にこそあれ有田側にはそういうものはないんではなかろうかという論拠になりましょうか。
嶋崎丞氏 >
そうですね。その古九谷の絵付けの伝統が、初期の柿右衛門の色絵につながりにくいんではなかろうか、これは地元のきっと北出先生なんかも、こうおっしゃっているんではなかろうかと思っていますけれども、まさに同感ですね。
中矢進一氏 >
それでは最後に、この問題につきまして今後どういった調査研究が、そして整理分類とありますけども、どういったことが、先生は今後この問題について必要な作業であるというふうにお考えですか
嶋崎丞氏 >
やはり今申し上げたように、柿右衛門さんなんかはですね、自分ところの色絵付けの原点は古九谷にある。その中でも特に五彩手にあるなら話はまだ理解しないわけでもないんですけど、青手が自分のところの祖先だなんてとんでもないことを言うわけですから、というとこのテレビを見て柿右衛門さんはたいへんご立腹なさるかもしれませんが、そういうことで伊万里の人たちが自分たちの祖先に古九谷を位置づけられるというようなことで、伊万里でできたものを一部古九谷と評価している可能性は十分あると思いますね。
だから、今日の伝世品の中には、正直申し上げて伊万里できの色絵付けのそれなりのものが古九谷という名称で伝世しているという場合が多いんだろうと、そういう化けているといったら悪いんですけども、それは比較的年代は若いと思っておりますけれども、そういうものをやっぱり整理分類しませんとね、そういうものを含めながら古九谷伊万里論をいくら進めても中々問題が多いと思うんですね。
今、九谷A遺跡でどんな仕事がやられていたんであろうかというようなことが、だんだん分かってくるような情勢が見えておりますので、伝世品の中で伊万里出来の古九谷に化けているもの、そういうものをまず伝世品の中から分けて、九谷で焼かれた素地を使いながら絵付けをしたものがどういうものがあるとかですね、私が固執する有田から素地を持ってきてこちらで絵付けしたものが、じゃどういうものをどういう位置づけするかというようなことで、古九谷と呼ばれている、そのトータルとしての伝世品を、技法別、産地別なんて云うんでしょうか、その好みみたいなもの、そういうものに整理してこれから新しく古九谷というものを議論する時代に来ているんではなかろうかと、こう思うんですね。
中矢進一氏 >
つまり真の意味での古九谷、こういったものを分類する作業が、今後必要ではなかろうかということですね。
嶋崎丞氏 >
これをやっていきますとね、私は今日いわれている古九谷の点数といいますか、伝世点数はある程度絞られてきて数は少なくなってくるのではなかろうかと思っておりますけれど、これはやっぱりやらないで全部ひっくるめてですね、今日一様に古九谷と云われている肩書きのものをトータルで議論していては、今後解決策というのは中々見えてこないと思っております。
そしてまたこの古九谷伊万里論、今日走っているこの考え方というのは、はたしてこれで定着するかというとまだまだ定着しないと思っております。今後の研究と、さらに皆さんに頑張っていただいて、いろんな議論をだして皆さんで討論しながら、古九谷とは何かということを決めていく時代に入ってきたのかなあとこう思っております。
対談終了
司会 >
石川県立美術館館長の嶋崎先生のお話をお送りいたしました。中矢さん、嶋崎先生は古九谷の素地移入論についてお話しをしておられましたね。
中矢進一氏 >
そうですね、嶋崎先生はずいぶん昔から、この素地移入論を説いておられます。つまりこれは、古九谷に特有の上絵付けの伝統があるんだと、上絵こそが九谷の命なんだということを先生は説いておられるんですね。

Copyrights (C) 2010 NPO法人さろんど九谷 加賀の九谷プロジェクト実行委員会,All Rights Reserved. mail